昭和41年12月29日 夜の御理解



 今朝から久保山先生ところの奥さんが参って見えてから、先生あの生き生きした信心と言う事を言われるんですけれども、椛目で生き生きした信心をしておるというのは、先生どなたでしょうかとこう。さぁそうですなぁ椛目で生き生きとした信心しておるのは誰だろかと、これは実は私も思うてみたんです。成程良い信心をしておる人、熱心な人はあります。けれどもその本当にこの生き生きとした信心と言うのは、何時も生き生きと神様を身近に感じておる人です。
 だから生き生きとならざるを得んのです。そういう意味合いではそうですね、北野の秋山さん辺りじゃなかろうかと私は申しました。そしたら先生そう仰ら本当にあの、秋山さんの言われる事は、時々心にその響いてくる。心を打つ様な事をもう何がなしに仰る事の中に、それを感じますですもんね。そうですねやっぱり秋山さんなんかは、確かに生き生きした信心しておられる様ですねと言うてから、話した事ですけれども。
 本当にあの信心には、金光様が日に日にさらとこう仰った事は、やっぱりそういう生き生きした信心に繋がるおる事。如何にさらな信心させて貰おう、さらな信心させて貰おうと言うてもですね。そんなに生き生きした心が、そのしぃら元気的な元気なら出るかも知れんけれども出るもんじゃありません。もう術ないから神様に縋っておる。術ないから朝参りでもしておる日参りでもしておると言うのと、まぁ大変違うんですよね。
 と言うてほんならもう毎日、このお参りする事が癖になった。習性習慣になっとると言うのとも違うですね。生き生きとこう感じられると言う事はですね。この矢張り日に日にさらとこう仰る事は、金光様なんかはもう日に日に、だからもう一番その生き生きしたものを感じて居ったのは、矢張り御本部の三代金光様でしたねぇと言うてから、今日話した事でしたけれど。
 もう何時もお話させて頂いてもですね。金光様のあのご雰囲気の中からですね。私共は生き生きしたものを確かに感じました。なら日に日にさらと言うのはどんな事かというと、結局神様を身近に感じておる人と言う事になるのです。そういう意味で確かに秋山さんは、おかげを頂いておると思うのですよね。成程場合によってはその、神様が遠のいてござる事もある。
 場合によってはでは無い事を思うたり、したりしよる事もあるけれども、神様がふっとこうお気付け下さると、すぐしゃんとするんですねぇ。あれは生き生きしたものを矢張り頂いておる証拠です。同時に久保山の奥さんが言われますように、確かにあの方の言われる事の中には、本当に心に響く様な事を、何気なしに言われる事のなかに、それを感ずると言われるですが。
 そういう様な信心をさせて頂きたい。そんな事をです私今御祈念前今日ここ八時に座らせて頂いたんですけれども。本当にあのそういう神様を生き生きとして、所謂その生き生きした信心をしておると言う事が、是はお徳を受ける事は間違いないのですね。ですから、あの人達が受けていく徳というものは尊いがその徳でもですね。徳を残しておくと言うても子供が何人もおるけれども、子供の誰があの徳を受け継ぐじゃろうか。また残しておかれる徳を誰が頂くじゃろうかというふうに、私は思いよったんですね。
 それは幾ら徳者であっても、その子供さんが徳が残っておると言う事はですね。あのここにこうむき出しにでとると言うのじゃないですよね。だからそれを頂こうと言う気になる事によって、例えばもう働いても働いてもそれこそ、我が暮らし楽にならざりという様にですね。又は願うても願うてももう大抵な信心もさせて頂いたけれども、おかげもよう頂けないと言う人達なんかは、まぁ徳がないから徳どころか、その反対のその不徳の借金を払いよるような時ですからね。
 ですからその拝んでも願っても、おかげを頂かないと言う時代がある。まぁ言い換えるなら、私共の過去の信心を思うてみる時に、それは感じますですねぇ。もうちょいともう大坪さんぐらいな、あれだけの信心してから、おかげ頂かんと言う事はないと、まぁ人が言うくらいにあったけれども、おかげ受けなかった事実。その時には結局借金払いをさせて頂いておった。
 むしろ先祖の借金払いをしておったと言う様な感じがする。先祖が例えばその山に生えて居った木は切ってしもうておった。その禿山になっておった様な山に登り合わせたのが、私である。そこで私はもう切る木はないから、そこに植えて行く事に一生懸命になったという時代を思うんですよ。如何に木は植わっておっても、そういう切ろうという願い、意欲というものがなかったらです。
 矢張り徳は受けられない。秋山さんが如何に徳を残しておっても、それを子供が孫が信心させて頂いて、それを切り開くと言うか、又は掘り起こすと言う様な信心になってくる時にです。おかげは頂きやすいと言う事になるだけの事ですよね。そう言う様な私共のそう思いよったら、その丁度豊子さん達が、嶋野さん達が親子兄妹親戚の方まで一緒に、六名で今お参りしてきたんですよ御祈念前に。それでまぁ本当にあの信心ちゃ有難い事だなと。本当にこの痛い痒いの事から、又迷うた時には迷わんで済む。
 又は痛い痒い時にはお願いが出来る、お縋りが出来る。それが有難いというだけではなくて、本当にこうやって例えば年末なら年末には、家族揃うてこうやってそのお礼参りでも出来れる神様を頂いておるという事。もうこの人どんがその必ず家族中で、あの遠い所からですね。その必ずそのお月次祭には参ってくるでしょうが。もう一家を挙げて一家を揃えてそのお礼参拝していく。
 そのお礼参拝させていただけれるという、その雰囲気がね有難いのだ素晴らしいのだ。それが幸せなのだと。信心しておっても降る事も照る事もあるけれども。そういう例えば痛いときには、痒い時には迷うた時には、神様にお願いをする、お伺いをさせて頂いての生活。本当にそういう生活をさせて頂いておる事が有難いと言うて、お礼参りをさせて頂くようなその雰囲気と、そう言う様な物がまぁ有難いと。
 まぁ丁度いうならば信心はその、晴雨兼用の傘を持って歩いておるような生活だと。信心しておっても降る事もありゃ、照る事もあるけれども、さぁいざ降り出したらその信心という傘をさしゃ濡れんで済むし。どんなに照ってきてもそれをさしゃ、暑い思いをせんで済むし。こんなに有難い幸せな事はないねと言うて、話した後にです。今はねずっと言うてその今私が話したような話をするんです。
 だからあなた方がどうでも一つ、本気で信心させて頂いて、親があれだけ打ち込んだ、いわば生き生きとした信心をさせて頂いておるから、あれが徳にならん筈はない。だからあの徳をほんなら、頂くのは子供であり孫であるけれども、頂くと言うてもそれを矢張り頂くためには、頂くための信心というものを、あんた方がせにゃいけんなと言うて話したことですけれど。
 どうぞこの日に日にさらとこう、いわゆる日に日に生き生きとした信心をさせて頂くと言う事は、それはどう言う事かというと、神様を身近に感じている生活だと言う事。神様を身近に感じている。そこにおのずと生き生きしたものが生れてくる。生き生きした喜びがある。その生き生きした喜びを持って、一日を様々な問題にも、様々な難しい難儀な問題の中にでも生き生きした信心心をもって、それに当たって行く事が出来るという風に、まぁ感じるですね。
 どうぞお互いも一つ心の中に、生き生きとした信心を頂くために、日頃頂いておる御教えを本当に頂かせて貰うて、神様の働きを身近に感ずる。そこにおかげを受けていく。今日あの徹さんが、もう次の御用を頂かせて貰うと来とったんです。もう先生今朝おかげを頂いた。夕べは何か朝五時ごろまでだったと。それでもう明日は月のおかげを頂かんならんからどうぞ神様、起こして下さいと言うてお願いをしとったら。
 その丁度八時にですね。もう目が覚めた時は八時じゃったそうですがもう急にお腹がもう痛み出した。もうそれがもう幾ら私でもその寝ちゃおられんぐらいに痛い。で起きてから顔を洗ったらスカッとようなった。おかげでその八時に今日起こして頂く事が出来たと言うてですね。そう言う様な事なんかは、神様を身近に感じておるわけですよ。良しにつけ悪しにつけ、神様を身近に感ずるとその生き生きした心が生れてくるんですよ。
   どうぞ、おかげ頂きますように。